「…わ―――っ!?」
一瞬だった。両手に持っていた数十枚の皿が宙を舞い、私の体は階段の上から真っ逆さまへと転がり落ちる。
踏み外して階段から滑り落ちたのだな、と頭の中の何処か冷静な部分で感じながら信じられない思いで目を閉じた。―ああどうしよう…あのお皿、きっと高いだろうに。
「…大丈夫かい?」
間近から声が降りてきた。衝撃を覚悟して固く閉じていた瞼を押し上げると、心配と困惑を織り交ぜにして覗き込むガイの顔が視界一杯に迫っていた。
「ガイ!?…っ、ごめんなさいっ!今すぐどく…っ」
「いや…そんなことよりも怪我は?」
「わたしは、大丈夫だけど……」
「そうか。よかった…」
ふ、と堅くしていた表情を崩して微笑む彼は右腕で私を支え、反対の手で私が放り出した皿を見事キャッチしていた。一枚も、落とすことなく。
(すご…!てゆうかどんな運動神経してんだろ……)
驚きに声もない私をよそに、彼はといえば涼しい顔をして首など傾げている。こうゆう、とんでもない曲芸並みのことをさらりとこなすこの男を、時々末恐ろしいなぁと思う。
「ガイの方こそ怪我は…?」
「俺?俺は平気だよ。そんなやわに出来てないさ」
にっこり笑う。その子供みたいに無防備な笑顔が、いつもよりも酷く近いことに唐突に気付いた。あれ、と内心不思議に思って、私はすぐにその理由に気付く。
この距離は、この、異様なまでの近距離は彼と出会って以来初めてだ。
「……というか、、、平気…なの?」
「ん…なにが?」
彼は私の体を抱き留めたままである。ガイの右手は今だ私の肩へと回され、彼らしい優しい配慮の下しっかり支えられている。
私の中のガイは、女性が少しでも近寄っただけで奇声を挙げて逃げ出し壁の隅で縮こまって震えているような男だ。女性に触れるなんてとんでもない、、、はず。不思議そうに目を丸め見詰めると、彼はようやく納得がいったようにあぁと小さく頷いた。
「俺の体質のことか。」
女性恐怖症。過去のトラウマもあって、ガイは女性に近付かれるのが苦手なのだ。
「もう平気…なんだ?」
「いや。随分治ってきたが…まだ後ろから抱き着かれるのはちょっと…な。」
あと、にじり寄られるのとくすぐられるのも駄目だ。と恐怖に怯えた瞳で続けるガイの体は心なしか震えている。酷く具体的な体験例の数々に、私はふと嫌な予感に駆られ頬を引き攣らせた。
「もしかして、、、」
「アニスとジェイドには感謝しないとな…ほんと…」
(――― やっぱり…!)
ははは…と乾いた笑いを浮かべるガイに言葉を失う。そういえば、旅をしていた時もガイの女性恐怖症を治すという口実の下であの二人にいじられていた。
「なんか…相変わらずというか…苦労してるんだね、ガイも」
「そうでもないさ。…それに今回のことは俺から二人に頼んだんだ。」
「どうして…」
あんなに怖がっていたのに…?不思議に思って聞き返した。私の問いに彼は一度私を見詰め、ほんのりと目を細め、笑った。そして、
「治したかったんだ…どうしても。」
まっすぐに。言葉と共に真っ直ぐにこちらを覗き込んでくる瞳に、どきりと胸が跳ねた。何故か、とても逃げ出したいような、隠れたいような、それでいてそのままでいたいような不思議な恐怖と焦燥感に駆られ心が揺れた。
ガイの指先がゆっくりと、、、私へと近付いてくる。触れる、ために。
「触れたかった。…こうして、―――ずっと…君に、」
焦がれていたんだ。
少しでも近付きたくて。
指に、
頬に、
髪に、
肩に、
触れたくてずっとずっと、その温もりに焦がれていた。
臆病な指先が躊躇いがちに近付いて、そっと髪を撫でる。頬を、滑り落ちる。ガイの指は震えていた気がした、違う―震えているのは私の方かもしれない。熱くて、怖くて、恥ずかしくて、それでも真っ直ぐに私を見詰める瞳に囚われて息すら出来ない。
「…、、、」
そのまま抱き寄せられそうになり、私は慌てたように立ち上がった。
「あっ……私、そろそろ夕飯の支度があるから…っ!」
スカートの裾を直し、わけもなく髪の癖を撫で付け、挨拶もそこそこに逃げるようにしてその場を立ち去った。
(……な、)
髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。くせの強い私の髪は、あっという間に酷いことになったが先程よりは幾分かましだ。頬に触れれば熱かった。鏡を見なくとも分かる、今の私は間抜けな程に真っ赤なのだろう。
ガイの、指先眼差し言葉のひとつひとつが体に残って消えない。
(な、な……なんて末恐ろしい奴……!!)
―――しかも天然で。
わかっていたはずだ。ガイが、素で女たらしで紳士で歯の浮くような恥ずかしい言葉もさらっと言ってのける奴だということは。
これで、女たらし天然紳士(すごい称号だ)の唯一の弱点だった女性恐怖症を克服されては、火に油を注ぐようなもの。魚に水を与えるようなもの。
勘弁して欲しい、本当に。
こんなことでこれから先私の心臓は保つのだろうか、と先行き不安になりながら心の中で盛大に叫んでいた私は知らなかった。
「………。」
一人取り残されたガイが、空を切った両腕に目を落とし不満そうな(言い換えれば不穏な)顔をしていたことを。
Proportion inverse
近付く程に離れていく